私と妻、 そしてパニック障害 第2章 発病
原因がわからない、突然の体調不良
病院にいっても「 異常なし 」
そして、あの日から・・・
飲食店を経営しながら
カウンセラー活動をしている よしさん🍀です
それでは
私と妻 そしてパニック障害
第2章のはじまりです。
原因不明の体調不良
アルバイトで入ってきた女の子( 現在の妻 )
店長命令で、アルバイト初日に
一緒に帰ることになりました。
そのときは、
女の子を氣遣う余裕がなかったのですが・・・
どんなときも、「 大丈夫です! 」
と笑う姿がとても印象的でした。
それをきっかけに
2人で過ごす機会が増えていき
いろいろありましたが
付き合うことになりました。
私は、今のアパートから
1日も早く逃げ出したかったので
妻に相談しました。
「 隣に、反社会の人が住んでいる 」
それを聞いた妻は一言、
「 じゃぁ、 私と一緒に住む? 」
妻の突然の申し出に
驚きましたが、とてもうれしかったです。
そして、妻は疑問に思っていた
胸の内を打ち明けてくれました。
私と付き合っているのに、
アパートを教えない
住所すら言わない、何故だろう?
私の話を聞いて、ようやく
疑問がとけたと妻は笑いました。
そこから、
隣のK島に気づかれないように
妻のアパートに引っ越しました。
いよいよ、妻との生活が始まります。
しばらくは、平穏な日々が続きますが
ある晩のこと
急に喉の異変というか
息苦しさが襲ってきました。
心配した妻が、救急外来を調べて
タクシーに乗り
病院に向かい検査を受けますが
「 どこも異常なし 」
でも、決まって夜になると
またあの息苦しさに襲われます。
何件も病院を周りますが、
その度に返ってくる言葉は
「 異常なし 」でした。
そして、最終的に
医師から言われたのが
「 禁煙してください 」でした。
禁煙したら治るのだろうか・・・
当時は、
心療内科という言葉さえ知らなかったので
診察は、内科と耳鼻科を受診しました。
「 どこも異常なし 」と
医師から言われるのも、それが自然なことでした。
その日からタバコを止めました。
二度目の結婚
昭和天皇が崩御された年に、転勤命令がでます。
広島店に調理長として配属
妻はその当時、博多店で店長の右腕として働いていました。
長年の常連さんにも受けがよく、とても人氣がありました。
後日談になりますが
常連さんのJR九州の幹部が数名
「 俺たちの娘を連れて行ったのはどいつや!」
といって勤務先の広島店に、
わざわざ私の顔を見に来たくらいですから。
なので、その時は単身赴任する覚悟でしたが
妻がついていくと、言ってくれたので
この時に、再婚することを決めました。
妻の親族に
結婚の許しをえるために、
妻の実家に挨拶に行きました。
妻の実家には、
一度結婚で失敗していることは伝えてありましたが
今思えば、よく結婚を許してくれたと思います。
結婚を前提に交際を許してくれたのは、
妻は幼い頃に母親を亡くし
祖母の助けを得ながら家事をやっていたため
父親にはかなり信用がありました。
そして妻が日頃から、
私がまじめに働いていることを
父親に話してくれていたからでした。
挨拶の席で、義祖母の提案で
「 結婚する氣があるなら一緒に住んで欲しい 」
と言われたので
妻と共に、広島に行くことになりました。
それから妻と無事
平成4年に結婚式を挙げます。
挙式までに4年間もかかりました
妻のこだわりで
結婚資金は
自分たちで用意すると決めていましたので。
妻の協力のおかげで
K島と離れることができ、
もう一度結婚もできて本当に幸せでした。
ですが、
突然の発症により、パニック障害との
長く苦しい戦いの日々が始まります。
発症
平成5年の春
広島の店に1本の電話が入ります。
電話の内容は以前勤めていた
博多店への日帰り出張の依頼でした。
私は新幹線に乗り、博多に向かいます。
その時は、懐かしい気持ちでいっぱいで
博多に向かっていました。
小倉について、発車の合図と共に
ドアが閉まって動き出し
新幹線のスピードが乗って来た時
急に心臓を締めつけられ、バスを降りた
あの時の恐怖が身体を襲ってきました。
「 降りたい!」
どうすることもできない程
ものすごい強い衝動に駆られます。
ところが
今は新幹線の中なので、降りることはできません。
だんだんと冷や汗がでて、息苦しくなり
自分はこのまま死ぬんではないか
といった思いが頭をよぎります。
小倉から博多までの15分は、
人生の中で
とても長い長い15分でした。
やっとの思いで
新幹線は博多に着きます。
慌てておりて
近くのベンチに腰掛けていると
あの時と同じように、
心臓の鼓動が
ドクンドクンと大きくなり続けます。
頭の中は、真っ白でした。
しかしながら
今度は広島に帰らなければならない
このことが頭ら離れず、
その日はどう過ごしたか全く覚えていません。
帰りたい
博多の新幹線乗り場
こだま博多発 広島行きの最終列車
すでに、新幹線は到着しています。
駅員さんに
「 これが最終ですよね 」と尋ねると
怪訝そうな顔で「 そうです 」と言われ
まるで今にも、「 早く乗れ! 」
と言われているようで途端に苦しくなりました。
「 早く帰りたい 」との思いと
「 怖い 」という恐怖
頭がパニック状態です。
それでも新幹線は動き出し
ただ呆然と
一人、ホームで立ち尽くし
涙が止まりませんでした。
「 帰れない 」
乗っていれば、帰れるのに乗れない
失意のどん底です。
最終の新幹線に乗れず
ホームを出てタクシー乗り場に行きます。
所持金もわずかでしたが
帰りたい一心でタクシーに乗りました。
運転手さんに広島までと告げると
「 広島ですか? 」と聞き返され
「 駄目ですか?」と強い口調に
「 本部に電話します 」といわれ
なんとか無事に
広島まで行ってくれることになりました。
まだ身体は震えていましたが
運転手さんが、私に
氣をつかい色々話しかけてくれました。
福岡第一交通 タクシー ○○と書かれた名前
偶然にも別れた彼女と同じ苗字
乾いた笑いが出てきて
また涙が止まりませんでした。
広島についたのが夜中の3時すぎ
マンションから妻が出てきました。
なかなか帰ってこない私を心配して
ずっと、ベランダから見ていたようです。
メーターの料金は
58,000円
情けない気持ちでいっぱいでした。
部屋に入り
妻に今日の出来事を正直に話し
涙ながらにあやまりました。
妻は抱きしめながら
「 大丈夫、大丈夫、大丈夫 」と
何度も言ってくれましたが
でも辛く、惨めで、情けなくて仕方なかったです。
その日を境に、電車・バス・新幹線・飛行機など
あらゆるものが乗れなくなりました。
辛く苦しい日々の始まりです。
告白
その年から、
月一度の大阪本社での会議がきまり
役職者は出席が義務づけられていましたので
早くこの症状を改善し、治す必要がありました。
早く治したい一心で、本屋で色々調べました。
広場恐怖症・不安神経症・強迫観念
調べても、どうすれば良いのかわかりませんでした。
そんなある日の新聞の広告に
「 不安神経症・強迫観念を治します! 」
といった記載を見つけます。
広島駅の近くのビル5F、
催眠研究所の看板
1回の施術 50,000円でした。
妻に料金を話しました。
最初は、不安そうな顔をしましたが
快く了承してくれました。
藁をもすがる思いで
そこから、催眠研究所に何回も通いました。
役職者会議の日が近づいてきたある日
催眠研究所の所長に相談するため、
部屋を訪れると
所長はパターの練習をしていました。
所長に
「 新幹線に乗るのがまだ怖い 」と告げると
返ってきた答えが
「 薬を飲むしかないんじゃない 」でした。
その言葉を聞いて絶望しました
薬で治るぐらいなら、催眠療法は受けていません。
1回の施術にかけた50,000円
すでに、30万ほどかけていました。
騙されたと、わかった瞬間でした。
「 妻になんと話そう 」
足取りも重く、家につきドアを開け
しばらく、玄関の前で
部屋に入ることができませんでした。
妻がかけ寄ってきたので
「 騙された・・・」
「 30万が無駄になった 」
妻は、その事には一切ふれずに
「 お腹すいたでしょ ご飯食べよ! 」
と言ってくれました。
ご飯なんて、食べる氣になりません。
ですが、妻が明るいく振る舞う姿に
申し訳なく思い
消えてしまいたい氣持ちになりました。
今まで乗れたのになぜ・・・
次の日、
妻に「 今度の大阪の会議は休もうと思う 」と
相談しました。
妻が、「 一度、上司に相談しよう 」と
そして、「 私も一緒に行くから 」
と言ってくれました。
上司に相談するのは、氣が引けました。
なぜなら、その当時は
他店の店長や料理長に
「 1ヶ月で逃げられた男 」として
烙印を押されていましたから
これ以上、恥の上塗りをしたくないと
自分の中に変なプライドがありました。
そうはいっても、このままでは
どうにもならないのはわかっていたので
上司に相談することに
当時の東京・赤坂店勤務で
統括マネージャーだったK原さんに
思い切って連絡を取りました。
博多店の帰りに寄ると返事をもらい
その日の、仕事終わりに会うことになりました。
待ち合わせ場所に行くと
すでに、K原さんは来ていました。
よほど、私の顔が強張っていたのでしょう。
「 話って? 」と聞いてきました。
K原さんは、40歳をすぎていましたが
独身で、気ままな自由人といった人でした。
今までの経緯を話しました。
K原さんは
「 嫁さんは知っているのか? 」と聞かれたので
私は「 すべて、知っています 」と言うと
「 嫁さんに、打ち明けたの! 」と
「 おまえ、よく話せたなぁ 」と驚かれました。
そして、「 それ!パニック障害な! 」と言われて
初めて「 パニック障害 」という名前を知りました。
話を聞くと、K原さんの知り合いにも
何人かいると教えてくれました。
そして、「 みんな嫁さんに言えず苦しむんだよな 」と
話していました。
だから、
私が妻に打ち明けたことを知って
あんなにも驚いたのです。
そして
一番驚いたのは、
K原さんが
「 俺も、”こだま” しか乗れないよ 」と
教えてくれました。
K原さんは、続けて
「 俺も小さい頃のトラウマで乗り物苦手 」と
だから、
出張のたびに薬をもらいに行くと話してくれました。
統括マネージャーとして
各店舗を視察に周るK原さんが
自分と同じ苦しみを持っていると知った時は、
驚きと同時に安堵の気持ちになりました。
「 俺だけじゃないんだ 」
そこから、すぐに広島で
「 心療内科 」を探しました。
そして、
この「 心療内科 」との
出会いが、小さな希望の光となります。
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