私と妻、 そしてパニック障害 第2章 発病

2023年7月6日

発病

原因がわからない、突然の体調不良

病院にいっても「 異常なし 」

そして、あの日から・・・

 

飲食店を経営しながら
カウンセラー活動をしている   よしさん🍀です

それでは

 

私と妻  そしてパニック障害 

第2章のはじまりです。

 

原因不明の体調不良

疾患

 

アルバイトで入ってきた女の子( 現在の妻 )

店長命令で、アルバイト初日に

一緒に帰ることになりました。

 

そのときは、

女の子を氣遣う余裕がなかったのですが・・・

 

どんなときも、「 大丈夫です! 」

と笑う姿がとても印象的でした。

 

それをきっかけに

2人で過ごす機会が増えていき

 

いろいろありましたが

付き合うことになりました。

 

私は、今のアパートから

1日も早く逃げ出したかったので

 

妻に相談しました。

 

「 隣に、反社会の人が住んでいる 」

 

それを聞いた妻は一言、

 

「 じゃぁ、 私と一緒に住む? 」

 

妻の突然の申し出に

驚きましたが、とてもうれしかったです。

 

そして、妻は疑問に思っていた

胸の内を打ち明けてくれました。

 

私と付き合っているのに、

アパートを教えない

住所すら言わない、何故だろう?

 

私の話を聞いて、ようやく

疑問がとけたと妻は笑いました。

 

そこから、

隣のK島に気づかれないように

妻のアパートに引っ越しました。

 

いよいよ、妻との生活が始まります。

 

しばらくは、平穏な日々が続きますが

 

ある晩のこと

急に喉の異変というか

息苦しさが襲ってきました。

 

心配した妻が、救急外来を調べて

タクシーに乗り

病院に向かい検査を受けますが

 

「 どこも異常なし 」

でも、決まって夜になると

またあの息苦しさに襲われます。

 

何件も病院を周りますが、

 

その度に返ってくる言葉は

「 異常なし 」でした。

 

そして、最終的に

医師から言われたのが

「 禁煙してください 」でした。

禁煙したら治るのだろうか・・・

 

当時は、

 

心療内科という言葉さえ知らなかったので

診察は、内科と耳鼻科を受診しました。

 

「 どこも異常なし 」と

 

医師から言われるのも、それが自然なことでした。

その日からタバコを止めました。

二度目の結婚

結婚

昭和天皇が崩御された年に、転勤命令がでます。

広島店に調理長として配属

 

妻はその当時、博多店で店長の右腕として働いていました。

長年の常連さんにも受けがよく、とても人氣がありました。

 

後日談になりますが

 

常連さんのJR九州の幹部が数名

「 俺たちの娘を連れて行ったのはどいつや!」

といって勤務先の広島店に、

わざわざ私の顔を見に来たくらいですから。

 

なので、その時は単身赴任する覚悟でしたが

 

妻がついていくと、言ってくれたので

 

この時に、再婚することを決めました。

 

妻の親族に

結婚の許しをえるために、

妻の実家に挨拶に行きました。

 

妻の実家には、

一度結婚で失敗していることは伝えてありましたが

 

今思えば、よく結婚を許してくれたと思います。

 

結婚を前提に交際を許してくれたのは、

妻は幼い頃に母親を亡くし
祖母の助けを得ながら家事をやっていたため

父親にはかなり信用がありました。

そして妻が日頃から、

私がまじめに働いていることを

父親に話してくれていたからでした。

 

挨拶の席で、義祖母の提案で

「 結婚する氣があるなら一緒に住んで欲しい 」

と言われたので

妻と共に、広島に行くことになりました。

 

それから妻と無事

平成4年に結婚式を挙げます。

 

挙式までに4年間もかかりました

妻のこだわりで

結婚資金は

自分たちで用意すると決めていましたので。

 

妻の協力のおかげで

K島と離れることができ、

もう一度結婚もできて本当に幸せでした。

 

ですが、

突然の発症により、パニック障害との

長く苦しい戦いの日々が始まります。

 

発症

不安

平成5年の春

広島の店に1本の電話が入ります。

 

電話の内容は以前勤めていた

博多店への日帰り出張の依頼でした。

 

私は新幹線に乗り、博多に向かいます。

 

その時は、懐かしい気持ちでいっぱいで

博多に向かっていました。

 

小倉について、発車の合図と共に

ドアが閉まって動き出し

 

新幹線のスピードが乗って来た時

 

急に心臓を締めつけられ、バスを降りた

あの時の恐怖が身体を襲ってきました。

 

「 降りたい!」

 

どうすることもできない程

ものすごい強い衝動に駆られます。

 

ところが

今は新幹線の中なので、降りることはできません。

だんだんと冷や汗がでて、息苦しくなり

 

自分はこのまま死ぬんではないか

といった思いが頭をよぎります。

 

小倉から博多までの15分は、

人生の中で

とても長い長い15分でした。

 

 

やっとの思いで

新幹線は博多に着きます。

 

慌てておりて

近くのベンチに腰掛けていると

 

あの時と同じように、

心臓の鼓動が

ドクンドクンと大きくなり続けます。

 

頭の中は、真っ白でした。

 

しかしながら

 

今度は広島に帰らなければならない

このことが頭ら離れず、

その日はどう過ごしたか全く覚えていません。

 

帰りたい

博多の新幹線乗り場

こだま博多発   広島行きの最終列車

 

すでに、新幹線は到着しています。

 

駅員さんに

「 これが最終ですよね 」と尋ねると

怪訝そうな顔で「 そうです 」と言われ

 

まるで今にも、「 早く乗れ! 」

と言われているようで途端に苦しくなりました。

 

「 早く帰りたい 」との思いと

 

「 怖い 」という恐怖

 

頭がパニック状態です。

それでも新幹線は動き出し

ただ呆然と

一人、ホームで立ち尽くし

涙が止まりませんでした。

 

「 帰れない 」

 

乗っていれば、帰れるのに乗れない

 

失意のどん底です。

 

 

最終の新幹線に乗れず

 

ホームを出てタクシー乗り場に行きます。

 

所持金もわずかでしたが

 

帰りたい一心でタクシーに乗りました。

 

運転手さんに広島までと告げると

 

「 広島ですか? 」と聞き返され

 

「 駄目ですか?」と強い口調に

 

「 本部に電話します 」といわれ

 

なんとか無事に

広島まで行ってくれることになりました。

 

まだ身体は震えていましたが

運転手さんが、私に

氣をつかい色々話しかけてくれました。

 

福岡第一交通 タクシー ○○と書かれた名前

 

偶然にも別れた彼女と同じ苗字

 

乾いた笑いが出てきて

また涙が止まりませんでした。

 

 

広島についたのが夜中の3時すぎ

マンションから妻が出てきました。

 

なかなか帰ってこない私を心配して

 

ずっと、ベランダから見ていたようです。

 

 

メーターの料金は

 58,000円

情けない気持ちでいっぱいでした。

 

部屋に入り

妻に今日の出来事を正直に話し

涙ながらにあやまりました。

 

妻は抱きしめながら

「 大丈夫、大丈夫、大丈夫 」と

何度も言ってくれましたが

 

でも辛く、惨めで、情けなくて仕方なかったです。

 

その日を境に、電車・バス・新幹線・飛行機など

あらゆるものが乗れなくなりました。

 

辛く苦しい日々の始まりです。

 

告白

希望

その年から、

月一度の大阪本社での会議がきまり

 

役職者は出席が義務づけられていましたので

早くこの症状を改善し、治す必要がありました。

 

早く治したい一心で、本屋で色々調べました。

広場恐怖症・不安神経症・強迫観念

調べても、どうすれば良いのかわかりませんでした。

 

そんなある日の新聞の広告に
「 不安神経症・強迫観念を治します! 」

といった記載を見つけます。

 

広島駅の近くのビル5F、

催眠研究所の看板

1回の施術 50,000円でした。

 

妻に料金を話しました。

最初は、不安そうな顔をしましたが

快く了承してくれました。

 

藁をもすがる思いで

そこから、催眠研究所に何回も通いました。

 

 

役職者会議の日が近づいてきたある日

 

催眠研究所の所長に相談するため、

部屋を訪れると

所長はパターの練習をしていました。

 

所長に

 

「 新幹線に乗るのがまだ怖い 」と告げると

 

返ってきた答えが

「 薬を飲むしかないんじゃない 」でした。

 

その言葉を聞いて絶望しました

 

薬で治るぐらいなら、催眠療法は受けていません。

1回の施術にかけた50,000円

すでに、30万ほどかけていました。

 

騙されたと、わかった瞬間でした。

 

「 妻になんと話そう 」

 

足取りも重く、家につきドアを開け

しばらく、玄関の前で

部屋に入ることができませんでした。

 

妻がかけ寄ってきたので

 

 

「 騙された・・・」

「 30万が無駄になった 」

 

妻は、その事には一切ふれずに

 

「 お腹すいたでしょ ご飯食べよ! 」

と言ってくれました。

 

ご飯なんて、食べる氣になりません。

 

ですが、妻が明るいく振る舞う姿に

申し訳なく思い

消えてしまいたい氣持ちになりました。

 

今まで乗れたのになぜ・・・

 

 

次の日、

妻に「 今度の大阪の会議は休もうと思う 」と
相談しました。

 

妻が、「 一度、上司に相談しよう 」と

そして、「 私も一緒に行くから 」

と言ってくれました。

 

上司に相談するのは、氣が引けました。

 

なぜなら、その当時は

他店の店長や料理長に

「 1ヶ月で逃げられた男 」として

烙印を押されていましたから

 

これ以上、恥の上塗りをしたくないと
自分の中に変なプライドがありました。

 

そうはいっても、このままでは
どうにもならないのはわかっていたので

 

上司に相談することに

 

当時の東京・赤坂店勤務で

統括マネージャーだったK原さんに

思い切って連絡を取りました。

博多店の帰りに寄ると返事をもらい

その日の、仕事終わりに会うことになりました。

 

待ち合わせ場所に行くと
すでに、K原さんは来ていました。

 

よほど、私の顔が強張っていたのでしょう。

 

「 話って? 」と聞いてきました。

 

K原さんは、40歳をすぎていましたが

独身で、気ままな自由人といった人でした。

 

今までの経緯を話しました。

 

K原さんは

「 嫁さんは知っているのか? 」と聞かれたので

私は「 すべて、知っています 」と言うと

 

「 嫁さんに、打ち明けたの! 」と

「 おまえ、よく話せたなぁ 」と驚かれました。

 

そして、「 それ!パニック障害な! 」と言われて

 

初めて「 パニック障害 」という名前を知りました。

 

話を聞くと、K原さんの知り合いにも

何人かいると教えてくれました。

そして、「 みんな嫁さんに言えず苦しむんだよな 」と

話していました。

 

だから、

私が妻に打ち明けたことを知って

あんなにも驚いたのです。

 

 

そして

一番驚いたのは、

K原さんが

「 俺も、”こだま” しか乗れないよ 」と

教えてくれました。

 

K原さんは、続けて

「 俺も小さい頃のトラウマで乗り物苦手 」と

だから、

出張のたびに薬をもらいに行くと話してくれました。

 

統括マネージャーとして

各店舗を視察に周るK原さんが

自分と同じ苦しみを持っていると知った時は、

驚きと同時に安堵の気持ちになりました。

 

「 俺だけじゃないんだ 」

 

そこから、すぐに広島で

「 心療内科 」を探しました。

 

そして、

この「 心療内科 」との

出会いが、小さな希望の光となります。

区切り線

次回につづく